ボマルスンド要塞跡は、オーランド諸島で最も多くの人が訪れる歴史的名所の一つです。要塞そのものはあまり残っていませんが、19世紀のロシア占領下にあったオーランド諸島の歴史や、ロシア皇帝による要塞建設に終止符を打った劇的な戦いについて、多くを学べます。要塞跡にはビジターセンターがあり、遺跡の中には屋外展示も設けられています。
ボマルスンドはマリエハムンから33kmの場所にあり、車で行くのが最も便利です。マリエハムンからボマルスンドまでは、自転車で約2時間かかります。マリエハムンとボマルスンドの間では、バスが毎日運行しています。ボマルスンドへ向かう途中には、オーランド諸島を代表する歴史的名所、カステルホルム城があります。
ボマルスンド・ビジターセンターは夏季には毎日開館していますが、開館時間は限られています。それ以外の季節は閉館していますが、要塞跡はいつでも訪れることができ、遺跡や、当時の大砲が残る砲塔を見ることができます。
1808年から1809年にかけてのフィンランド戦争でスウェーデンがロシアに敗れると、フィンランドとオーランド諸島はロシア皇帝の手に渡りました。オーランド諸島がロシア帝国の西の国境となったことを受け、新たに獲得した領土を守るため、大規模な要塞の建設計画がまもなく始まりました。
1810年には早くもロシア人技師たちが図面を作成し、計画中の要塞に地理的に適したボマルスンドで軍事施設の建設に着手しました。しかし、責任者だったロシア軍の少佐が1819年に亡くなると、計画は中断しました。計画が再開されたのは1828年のことで、今度はより近代的な戦いを念頭に、大砲と十数基の防衛塔を備える構想になりました。この巨大な要塞は、オーランド諸島史上最大の建造物となるはずでした。
1830年から1854年にかけて、何千人もの労働者、囚人、兵士の手によって建設がゆっくりと進められました。防衛のため、4,000人から5,000人の兵士を駐屯させる計画でした。要塞にはもちろん、病院や正教会の教会堂など、民間の施設も設けられる予定でした。建設現場の周辺にはスカルパンスという小さな町が形成され、当時のオーランド諸島のエリート層は占領者たちと親しく交わり、宴を楽しみました。
1853年、ロシア帝国と、主にイギリスとフランスからなる敵対勢力の同盟との間でクリミア戦争が始まりました。ほどなくしてバルト海はイギリス艦隊の支配下に入り、ロシア軍は交戦をためらいました。ボマルスンド要塞はまだ完成しておらず、イギリスの蒸気船にとって攻撃しやすい標的でした。1854年の夏至祭の頃、イギリス軍は大砲とロケット弾でボマルスンドへの砲撃を開始し、ロシア軍も同様の一斉射撃で応戦しました。艦船の弾薬が尽きると攻撃はいったん中断されましたが、7月末、要塞を今度こそ攻略するため、25隻からなる強力な艦隊が戻ってきました。フランス兵9,000人とイギリス兵900人が上陸し、要塞を守る2,000人余りのロシア兵に攻撃を仕掛けました。
海上と陸上で3日間にわたる激しい砲撃が続いた末、要塞司令官ヤコブ・アンドレーエヴィチ・ボディスコは降伏を余儀なくされました。勝利した側は要塞の残存部分を爆破し、ロシア軍の守備兵を捕虜にしました。戦闘で死亡した守備兵はわずか53人でした。フランス軍とイギリス軍が要塞を爆破したのは、冬になればロシア軍が軍勢を率いて氷の上を進み、要塞を奪還することを恐れたためです。
ボマルスンドの戦いは、クリミア戦争における大勝利としてフランスで受け止められました。1856年に講和条約が結ばれると、ロシアはオーランド諸島の非武装化を約束しました。フランスとイギリスはオーランド諸島をスウェーデンに返還することを提案しましたが、スウェーデン国王は踏み切れず、申し出を断りました。オーランド諸島は1917年の革命までロシアの支配下にありました。